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八木が谷発見塾 その1 [船橋 高野台・八木が谷 周辺]

晴れの予報なのに、すっきりしない天気です。実家のナンテンが鮮やかでした。昨日はブログの記事を書こうと思っていたのに、鉄腕ダッシュもそこそこに、寝てしまいましたw。
 今朝の一枚目はdr.buzzard's original savannah bandで、タイトルも同名の1976年のアルバムです。ラテン系なのに不思議なゆったり感。Kid CreoleことAugust Darnellの謎のユニットです。あまり秋に向けた一枚ではありませんが、お気に入りの一枚です。

48)八木が谷発見塾 その1
 10月29日 八木が谷発見塾に参加してきました。講師は滝口昭二先生です。
 土曜日の朝、自転車に乗って八木が谷公民館に向かいます。先日歩いて20分もかかった道のりも、自転車なら5分ですw。
公民館では、他に様々なイベントがあった様で、人で一杯です。2階の奥の部屋が会場です。ちょっと早くつきすぎたと思いましたが、会場には20人ほどの人が座って講義を待っていました。

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 滝口先生は、小柄で温厚そうな方で、ユーモアをちりばめながら、様々な話を脱線しながらも、色々な視点で解説してくれます。
分野に捕らわれない豊富な知識もさることながら、巧みな話術で話に釘付けの2時間でした。
 にじ達は、申し込み開始の日の朝に、申し込んだので運良く参加できましたが、申込者が殺到して、1時間ほどで定員に達してしまったそうです。どうりで、申し込みの電話がなかなか繋がらなかったはずですw。

 面白い話が沢山聴けたのですが、ここでどう紹介したものか、悩みどころです。ここでは講義の概要を紹介して、町歩きの際に実際の風景と一緒に再度紹介できるようになれば、いいかなと考えています。
まず、先生の言葉を借りつつ、にじ御殿のあるこの場所を説明します。まず船橋市ですが、地名の由来は大抵が、土地の特徴に起因するそうです。目に付く大きな船の橋があったのでは、とのことです。
そしたら、海老川にかかる、国道14号の橋、すなわち「船橋橋」は一体ww。

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 続いて表題の八木が谷ですが、現在の八木が谷と咲が丘、みやき台、高野台の範囲全体が、もともとの八木が谷集落の範囲だったそうです。
慶応2年、坂元竜馬が寺田屋事件なんかをしている頃、八木が谷集落は、住宅18件、人口82人しかいなかったそうです。
御殿の高野台2丁目や3丁目は江戸時代の頃は高野台ではなく高谷崎だったそうです、そして1丁目や4丁目は野辺田、5丁目が高野台だったみたいです。
そして、一番低い二重川の流域が高野です。なんで一番低い所が高野なのか疑問です。
 二重川流域の高野の部分は47話の写真の通り、こんな感じです。

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 高野台2丁目と1丁目の間にあるバス通りは、野火止道といって山火事の時に延焼を防ぐための、防火壁の役割をしていたそうで、江戸時代から残る道だそうです。
にじ御殿の辺りの区分けは、江戸時代にからあったようですw。尤も、昭和28年頃は殆んど人が住んでおらず、何処に家があるのか迷うほどの、赤松林だったそうです。人が住むようになって、家が並ぶようになったのは昭和40年代以降だそうです。
それでも、赤松林はきれいな景観だったそうです。まあ、あまり手を付けたくなかった場所ってことでしょうかw。その頃の等分の縦線の地割が、今の高野台のきれいな整形の区画として、残っているそうです。
江戸時代からあった区割りというのは、なんだかうれしいですね。結局のところ、江戸時代は木下街道沿いにぽつぽつ、家があったかも知れない程度で、後はただの山林、それでも赤松林ならマツタケがどっさり、何てこともあったのかもしれません。
 そのうち残された、赤松が存在しないか探してみることにします。

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 これは、43話目の佐久間牧場の時に撮った、咲が丘公園緑地の写真です。何も考えずに撮った写真なのでとても、風景とは言えませんが、育ちすぎるくらい大きなアカマツですw。高野台もこんな風景だったのかも知れませんね。
それでは、八木が谷の地形について、先生の解説をまとめていきます。図説すればいいのですが、絵を描くのが面倒なので、そのうち気が向いたら図も添付しますw。
30万年ほど前の地殻変動で、船橋側は隆起して、東京側は沈降したしたそうです。隆起した側を背斜構造、沈降した側を向斜構造とよんで、隆起した頂上付近で両側に水が流れていく辺りを分水界と呼ぶそうで、八木が谷は分水界にあたるそうです。
そして、八木が谷を中心として、印旛沼に下っていくほうを印旛沼斜面、東京湾に下っていく方を東京湾斜面というそうです。2枚目の二重川の写真は印旛沼斜面になりますね。

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 こちらは、海老川沿いに夏見台を見たところです、これが東京斜面なのかな?
夏見台の辺りは、舌状台地と言って、平面で見たときに舌の形に台地が広がっており、野馬を飼うのに適した地形だったそうです。斜面が急なので馬は逃げられないし、下の先端側のすぼまった所で馬を出し入れすれば便利ですしw。
そして、地盤の構造についてです。この辺りは基本的に、表土の下は、火山灰土の赤土、関東ローム層が2m程続き、その下は成田層という、砂層だそうです。関東ローム層には遠く鹿児島県の姶良(あいら)大噴火のものも見られ、顕微鏡で眺めると姶良の特徴であるガラス質が見えるそうです。
2万5千年前も、いろいろあったようですが、2万5千年後も放射線の風が流れてきて、状況はさして変わらないようですねw。
 この基本的な地層も、低地では随分様子が異なり、ローム層の上に土砂が溜まり、その上に育った草木が、冠水により中途半端に腐った状態で堆積し続けて、腐植土(化灯・化土)の層がローム層の上にできていて、そういった場所に埋土をして、田畑にしていたそうです。
八木が谷の辺りではこの腐植土層が2~3m、市役所の辺りでは30mほどもあるそうです。先生は液状化になりやすい地盤だと言ってましたが、どうなんでしょう?
確かに、地下水位の高い軟弱地盤ですから地震には弱いですが、腐植土は粘土質になるので、液状化は起こりにくいのではと考えてしまうのです。ヒービングは起こりますけどw。まあ、たいした話ではないですねw。
 そして、この辺りのもう一つの特徴が、段丘の上にローム層ができることにより、緩やかな斜面が構成されています。船橋の一般的な地形は、台地と低地が切り立った急な斜面で構成されていますが、この辺りは千葉丘陵のお陰で、緩やかになったようです。
千葉丘陵については、千葉大学の近藤研究室で資料を公開しております。リンクを貼って置きますので興味のある方はどうぞ。

下総台地の成り立ちと水循環
http://dbx.cr.chiba-u.jp/topics/2010/Shiroi100626/chikei.pdf

八木が谷発見塾 その2に続きます。

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